ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

設立の経緯

1. 設立の経緯

 昭和49年1月29日、衆議院予算委員会の質疑において、国の環境放射能調査に関する財団法人 日本分析化学研究所の核種分析データに不正のあることが指摘されました(いわゆる放射能データねつ造事件の発端)。 同研究所が、米国原子力艦関係の試料の分析をはじめとして、原子力に関係するほとんどすべての環境放射能分析を引き受けていたことから、この事件は大きな社会的反響を呼びました。(当時の国会議事録国会会議録検索システムへ 検索コード:日本分析化学研究所)
 我が国における環境放射能調査は、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(日米安保条約) に基づく米国原子力艦寄港の承認、核実験に起因する放射性降下物(フォールアウト)の放射能対策及び原子力平和利用の推進など、国の基盤に係ることでした。この事件の解決にあたって、科学技術庁(当時)は、行政に対する不信の払拭と信頼性の回復に努め、またそのためにも、国の責任をもって、一日も早く国民に信頼される分析機関を設置する必要に迫られました。 当時の森山欽司科学技術庁長官は、早急に新分析機関を発足させ、放射能分析の業務に取りかかることが肝要であるとの考えにより、昭和49年2月27日に「新分析機関準備委員会」が設置されました。
 新分析機関のあり方としては、政府が自らの責任で運営する政府機関、あるいは特殊法人が有力でしたが、 同委員会で議論が重ねられた結果、早期に設立する必要上「財団法人」とすることとなりました。そして3月15日に「日本分析センター設立準備室」が開設され、また4月26日には設立発起人会が開催され、昭和49年5月1日に「財団法人 日本分析センター」(日本分析センター設立趣意書) が発足しました。設立時に必要な資金は、日本原子力研究所、動力炉・核燃料開発事業団、日本原子力船開発事業団等の関係機関からの「寄附」によりました。また、土地は借地としてその借料や事業実施に必要な施設設備、各種機器類及び事業運営に必要な経費については「国等からの委託費を持って充てる」との考えに基づき、ほぼ全面的に国が運営する形となりました。

設立発起人会メンバー
代表 濱口 博東京大学教授
    兼重 寛九郎東京大学名誉教授
    宗像 英二日本原子力研究所理事長
    清成 迪動力炉・核燃料開発事業団理事長
    佐々木 周一原子力船開発事業団理事長
    星野 敏雄理化学研究所理事長
    藤波 恒雄ウラン濃縮事業調査会副会長

2. 虎ノ門・駒込時代

駒込時代業務開始

駒込時代業務開始
理化学研究所駒込分所の一部にて業務開始
(昭和49年7月1日~昭和49年10月1日)

 昭和49年5月1日、財団法人 日本分析センターが設立され、「設立準備室」(富士銀行虎ノ門支店内)は、事務所として使用されました。当初のメンバーは、原子力研究所及び動力炉・核燃料開発事業団のご好意により、職員の出向等を受け、事務局長以下3名でした。
 中断されていた放射能調査(原子力艦放射能調査及び全国29都道府県の放射性降下物調査)は、新設された当センタ-の責任において、放射能分析業務の開始を急ぐ事が要請されました。そこで理化学研究所駒込分所(大河内記念館)の一部を借用し、緊急的措置として施設・設備の整備を行い、昭和49年7月1日開所式を行いました。当センタ-の組織の陣容としては、管理部3名(虎ノ門)、分析部7名(駒込)、事務局長を加えて合計11名で、米国・原子力艦寄港に伴う放射能調査の分析業務を開始しました。なお、放射性降下物調査については、とりあえず日本原子力研究所、理化学研究所等に分担委託されて急場が凌がれました。
 原子力艦の寄港に伴う海水、海底土及び海産生物の放射能分析については、調査結果の評価について抜本的改善が図られました。当センタ-の分析結果は、科学技術庁に設置されている「原子力艦放射能調査専門家会議」及び新設された「放射能分析評価委員会」で評価・検討を受けたのちに公表されることとなりました。
 このような状況下で、昭和49年7月31日米国原子力艦「ピンタド」(昭和49年7月31日~8月12日)が横須賀港に入港しました。

3. 舟渡施設にて

舟渡施設の開設

舟渡施設の開設
竣工式の日、森山科学技術庁長官の施設の視察

 当センタ-自前の施設の建設が急がれましたが、恒久的施設の建設は、当時の状況(建設用地の確保及び資金面等に関する期日的な問題)では無理であり、次善の策として仮施設の建設を進めることとなりました。
 用地は板橋区舟渡に位置する工業技術院公害資源研究所浮間分室敷地の一部を、同研究所が筑波学園都市に移転するまでの、条件付期限として借用しました。ここに鉄骨プレハブ施設(総床面積888平方メ-トル)を建設することに決定し、突貫工事により昭和49年7月に着工し10月末に完成しました。
 昭和49年11月1日竣工の新施設において開所式を行い、原子力艦関係の環境試料の放射能調査業務並びに放射性降下物調査に伴う、分析業務の全てを本施設で遂行することとなりました。この時点で、職員総数は26名の陣容となり、放射能分析・測定業務に必要な機器・設備の更なる充実を図りました。
 昭和50年度には、新規事業として「放射能分析確認調査事業」及び「放射性核種分析法の基準化に関する対策研究」を開始しました。
 なお、昭和52年10月には、新規事業として環境放射線デ-タの収集管理業務が加わることになり、赤羽分室を発足させました。この業務の目的は、関係省庁、国立試験研究機関、各都道府県等の環境放射線(能)デ-タを一元的に収集・管理し、放射能レベル及び公衆への被ばく線量の把握に資するための必要な情報の提供です。

4. 千葉施設にて

 当センタ-は、設立当初から、本格施設の建設が要請されており、センタ-内部では、昭和50年頃から候補地の調査、施設規模の検討等を行い、科学技術庁との折衝を重ねてきました。国有地及び地方自治体の公有地の借用については、財産処分上などいくつかの制約で実現不可能となり、民有地に範囲を広げて候補地選びが続けられました。
 昭和52年度の電源開発特別会計予算で、借地料込みの建設予算が全体計画の一部として認められました。国は、土地借用だけでなく、建設された新施設も含めて借用することが望ましいとの考えで、候補地選びが行われてきました。
 昭和52年末に、民間の開発業者から具体的計画の提案があり、当センタ-は十分に検討した結果、現在の千葉市稲毛区山王町の候補地が望ましいと判断し、新施設建設のための槌音が聞かれることとなりました。
 昭和53年4月「新施設建設室」を新設し、「新施設検討委員会」を設けて、新施設等建設計画の検討を開始しました。

第1期工事(昭和53年10月1日~昭和54年3月15日)
 管理棟、デ-タ管理棟及び分析第2棟(電源特会棟)の建家工事、電気・空調・衛生関係プラント工事、構内道路、植樹、排水管埋設工事。

第2期工事(昭和54年6月15日~昭和54年11月15日)
 分析第1棟(放射能測定調査棟)

 当センタ-の本格的施設の建設に伴い、昭和54年12月7日に関係省庁、地方自治体、関連学会、地元等から約200名を迎えて、千葉施設開所式を行いました。