ドーピングとの闘い-事例紹介
事例紹介
●蛋白同化ステロイド-その1: 合成ステロイド
体内では多くのステロイド物質がホルモンとして合成・分泌され、身体の働きを調節・制御する重要な役割を演じています。細胞内の蛋白質合成を促進して細胞内の組織構築(蛋白同化)をもたらすものを蛋白同化ステロイドと言いますが、その中でも、アンドロステロン系のホルモンは、特に筋肉組織に顕著な男性化作用を及ぼします。
このような作用を持つステロイド様物質が人工的に合成され、最初は筋肉増強のための治療薬として用いられていたのですが、1960年代頃から、運動能力向上、あるいは闘争心高揚の目的でドーピングに多用されるようになりました。現在最もよく検出されるドーピング物質で、1988年ソウル五輪の男子100メートルで一旦優勝したジョンソン選手から検出されたことで有名なスタノゾロールなどがあります。
21世紀になって、サプリメントブームに乗じてドーピング目的で非合法的に合成されるデザイナー・ステロイドと呼ばれるものが多数流通するようになりました。デザイナー・ステロイドとは、体内に存在する天然のステロイドと極めて似た構造を持つようにデザインされたステロイドのことで、そのために検出が困難です。また、これらの中には、熱に不安定なため従来の主要な分析法であるガスクロマトグラフ質量分析(GC/MS)では分解してしまって検出されにくい物質もあります。2005年からはそれらの多くが各国の法律と歩調を合わせて禁止物質に指定されることになり、有効な検出法も開発されています。
●蛋白同化ステロイド-その2: 体内に存在するステロイド(内因性ステロイド)の合成品
ドーピング検査で合成ステロイドが検出されれば、それが体外から摂取したものであるのは明白です。そこで、検出を避ける更に巧妙な方法として、天然ステロイドホルモン(体内で自然に産生されるステロイドホルモン)が使用されるようになりました。マメ科植物等から合成されるテストステロン、5α-ジヒドロテストステロン(DHT)等で、多くはサプリメント成分としてインターネット市場で流通しています。
しかし、このような物質のドーピングに対しても、検出方法は進歩しています。当初は、体内での自然の存在濃度から大きく外れる異常を検出する方法が採られ、たとえば、1994年アジア競技大会(広島)で、水泳を中心とする多くの中国選手がDHTに陽性反応を示し、失格とされました。近年では、体内由来物質と植物からの合成品の炭素同位体比率の差に着目した「同位体比質量分析法」が開発され、正式の検査法となっています。
●血液ドーピング
これは薬物を使うのではなく、「禁止される方法」によるドーピングの代表的なものです。競技直前の輸血、または赤血球製剤の投与によって赤血球中のヘモグロビンを増量し、酸素供給能力を向上させて持久力を高めます。IOCは、1986年に血液ドーピングを禁止方法に指定しました。検出には血液検査が使われます。
輸血には、競技者が凍結保存した自分自身の血液(自己血)を再注入する方法、同じ血液型の他人の血液(同種血)を注入する方法があります。
一方、赤血球製剤の代表がエリスロポエチン(EPO)です。EPOはもともと体内に含まれるいわゆる造血ホルモンですが、人工的に大量生産され、腎性貧血の治療薬等として用いられています。しかし、その酸素供給能力が悪用され、持続力が必要な長距離系スポーツ(自転車ロードレース、クロスカントリー等)で頻用されるようになりました。
その目的で用いられる物質には、EPO以外にも、検出手法が確立していないペプチドホルモン類、ヘモグロビン系人工酸素供給物質(HBOC)、遺伝子発現や調節機構を促進または抑制する種々の転写調節因子などがあります。
●利尿薬、隠蔽薬
これらは、直接に競技能力を高めるのではなく、不正な薬物使用を隠すため服用する物質です。尿量を増して尿検体中の薬物の濃度を薄める利尿薬、禁止薬物が尿に出ていかないようにする再吸収促進剤、血中ヘモグロビン濃度を希釈する血漿増量剤などがあり、これらを用いることもドーピング行為です。
●その他の不正操作、不正行為
採尿の際の尿のすり替え、意図的な異成分(フケ、爪垢、唾)混入などがあります。2004年五輪(アテネ)で男子ハンマー投げに優勝したアヌシュ選手は、尿検体提出(カテーテル使用による尿すり替えの疑惑)後の再検査に応じず失格となりました。
●遺伝子ドーピング
治療以外の目的で、競技能力を高める可能性のある細胞や遺伝因子(核酸やその部分配列)を移入したり、遺伝子発現を変化させることにより運動能力に関係する機能に影響を与える物質の注入を試みたりすることを「遺伝子ドーピング」といい、禁止されています。悪用の例として、ヒトのホルモン産生遺伝子情報を組み入れたウイルスベクターを感染させたり、筋肉周辺に遺伝子断片や遺伝子情報を持つ細胞成分を注入させたりして、筋力を増強させることが考えられます。しかし、遺伝子治療は各国で厳しい倫理規定と審査体制の下に管理されているため、幸いにも遺伝子ドーピングが蔓延する事態には至っていません。




